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玉陵

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なはの日

7月8日は語呂合わせで「なはの日」です。→「なはの日」について
この日は市内各地で催し物が行われたり、文化財や博物館が無料開放されます。
識名園で撮影を終えたあと、同じく無料開放されている玉陵へ。

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写真集

↑玉陵

↑東室。第二尚氏初代国王尚円王は東室に安置されている。

↑子を抱えた雌獅子

↑玉紐を咥えて遊ぶ雄獅子

↑東室の扉

↑パノラマ
※拡大画像はこちら。

記事中の情報

「玉陵」那覇市HP→こちら
大人:300円
子ども:150円

住所:沖縄県那覇市首里金城町1丁目3

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写真歴史・文化
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この記事を書いた人
まぁびぃ

ハンドルネーム:まぁびぃ。
1995年1月30日、沖縄県那覇市出身。
2007年から2017年までは、Amebaでブログ運営をしていました。
現在は、WordPressで運営しています。
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コメント

  1. […] 察度王統時代に大修築が行われとされ、1427年に尚巴志が龍潭を作り庭園を整備します。 第一尚氏5代尚金福王が崩御後、世子の志魯(しろ)と金福の弟布里(ふり)が王位を巡り争います(志魯・布里の乱)。その際に首里城は全焼します。 志魯、布里は共に争いで薨れ、尚巴志の末子尚泰久が6代王に即位します。泰久は城内の建造物を再建し、仏教に帰依し城下に寺や末吉宮を創建します。また正殿に銅鐘(万国津梁の鐘)を懸けます。 王朝は第二尚氏へ移り、3代尚真王が菩薩寺である円覚寺、王統の陵墓である玉陵、円鑑池(弁財天堂)、大龍柱、北殿、歓会門、久慶門、園比屋武御嶽石門など多くを創建します。 4代尚清王は龍樋や守礼門を建設。 1609年薩摩侵入後は、薩摩の役人を接見することろとして南殿を建設しますが、1660年9月27日正殿とその他が全焼。その頃の王府財政は困窮していたこともあり、再建は12年後の1672年に行われます。 1709年に再び、正殿・南殿・北殿が焼失しますが、島津の寄賜がありすぐに再建。 1753年に寝廟殿、世添御殿が創建、1768年には正殿の大修理が行われます。 1872~1879年、琉球処分が行われ、首里城は明け渡すこととなります。 1923年、取り壊し寸前だった正殿を伊東忠太、鎌倉芳太郎らの尽力により保存され大修築が行われます。その2年後の1925年に国宝に指定されます。 1933年には歓会門、瑞泉門、白銀門、守礼門、円覚寺も国宝に指定。 しかし、沖縄戦で日本軍第32軍司令部が首里城の地下につくられ、それに伴い米軍の砲爆撃に遭い破壊されてしまします。 戦後、首里城を含む周辺の文化財の復元が行われ、1992年に首里城公園として一部が開園。 2000年に「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として首里城跡、園比屋武御嶽石門、玉陵などが世界遺産に登録。 2018年10月19日、玉陵が国宝に指定。 2019年2月1日、御内原(うーちばら)の復元が完了し開園。 →首里城公園ほぼすべての復元が完了。 […]

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