当ブログでたびたび取り上げてきた「識名宮」。
遷宮の過程を写真付きの記事で公開してきましたが、神殿裏にある洞穴を紹介したことがありませんでした。
毎月1日と15日に洞穴が公開されるので、写真を撮ってきました。
識名宮洞穴
↑賓頭盧(びんずる)が祀られてる
由緒
琉球王の篤い信仰を承け、尚元王(1556~72年)の長子尚康伯の病気回復に霊験を得て、識名宮と神応寺を建て、大あむしられに看守させたといわれています。
尚賢王(1644年)から毎年1月・5月・9月の吉日に国王の行幸が始まりました。1671年隣接の神応寺は臨済宗より真言宗に改宗(住持覚遍和尚)。
神社の社殿はもと洞内にありましたが湿気がひどく腐朽し、康煕19年(1680年)に洞外に移築して、瓦葺としました。引用:識名宮公式サイト
縁起
社伝によると、昔古真和志間切識名村(現繁多川含)は、広々とした荒れ野原で、人家はありませんでした。毎晩その地から光る物があって北斗星と牽牛星の間にまで光射していました。ある時、近くの村に住んでいた崎間知之の妻大阿母志良礼といふ者が密かにこの光る物を見に行きました。夜の風が冷え冷えと吹いていて一面は暗く、辺りには人影もない所で、ただ一つの洞穴があるのみでした。その洞穴には賓頭盧が一体安置されていました。大阿母は夜な夜な北斗星と牽牛星の間まで光射しているもとは、きっとこの賓頭盧の霊光に違いないと思って、これを深く信仰していました。
すると、不思議な事にいろいろと願事が叶えられていきました。人々もこの話を聞いて、ここを信仰する者が多くなったといわれています。その当時、尚元王の長男大具志川王子朝通尚康伯が病氣を患っていました。大阿母はこれを聞き早速王子の御殿に伺い、賓頭盧の霊験が非常にあらたかであるといふことを言上しました。王子はこの話を聞いて、ただちに病気平癒の祈願をこめさせると、果して霊験あらたかで、病が日に日に癒されていつの間にかもとの元気な体になりました。その御神徳にたいして、王子は自分の財を奉納してお宮とお寺を創建しました。その側には家を建て大阿母を住まわせて宮を守らせました。この時から大阿母は毎月1日と15日には、斎戒沐浴して国家安泰の祈念を始めました。その後、王府のはからいでこの宮寺が遂に官社に昇格し、大阿母には住居を御拝領賜ったといわれています。引用:識名宮公式サイト
由来、縁起にあるように、病気平癒に縁のある神社。
元来は洞穴内に社殿があったということなので、識名宮発祥の洞穴です。
記事中の情報
識名宮公式サイト→こちら
識名宮wikipedia→こちら
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住所:〒902-0071 沖縄県那覇市繁多川4丁目1−43
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