虎瀬公園
虎瀬公園は、首里赤平町2丁目に在る標高130mの琉球石灰岩の丘陵です。
頂上の岩石が虎の頭に見えたことから「虎頭山」「虎山」と言われるようになりました。
琉球王国時代には「虎瀬ヌ御殿」と呼ばれる国王の別邸があり、遠くに海を見渡せる景観は「首里八景」の一つとして数えられました。虎頭山に関する多くの詩歌が残されています。
1982年に公園として整備され、1992年には「佐藤惣之助詩歌碑」が琉球大学敷地内(現首里城)から移設されました。
佐藤惣之助
那覇市歴史博物館より、佐藤惣之助(さとうそうのすけ)について引用しますと
1890年(明治23)生まれ。12才の頃から俳句を学び、詩作を志した。1922年(大正11)5月から7月にかけ、沖縄及び台湾旅行を行い、『琉球諸島風物詩集』(1922年12月刊)を上梓した。詩集には、琉球諸島で接した風物を、琉歌の調子と琉球の言葉を取り入れて詠んだ詩85篇の他、紀行文が収められた。
惣之助は新人教育にも力を入れ、津嘉山一穂(つかやまいっすい)、伊波南哲(いばなんてつ)など多くの沖縄出身の詩人を送り出した。1942年(昭和17年)5月15日死去、享年53(満51歳)。
那覇市歴史博物館より引用
作詞家としても有名で「六甲おろし」や「湖畔の宿」の作詞を担当しています。
沖縄関連では、詩集「琉球諸島風物詩集」以外にも「美わしの琉球」の作詞も担当しています。
1959年(昭和34)、惣之助の出身地である川崎市から、那覇市との友好と文化的交流親善を深めるため、惣之助の詩碑が送られ、首里城跡に置かれた琉球大学構内に設置された。惣之助の十七回忌にあたる5月15日に盛大に除幕式が行われた。
碑は、同じ川崎市出身の陶芸家浜田庄司(はまだしょうじ)が、沖縄独特の赤瓦を織り込んだヒンプン型を作製し、詩集の「宵夏」の一節「しづかさよ 空しさよ この首里の都の宵のいろを 誰に見せやう 眺めさせやう」が書かれた陶板をはめ込んだものとなっている。
復帰20周年を記念した首里城復元により、首里城内に建てられた明治以降の遺物は、全面撤去の方針が示されたため、詩碑を管理する那覇市は、1992年(平成4)3月、首里・那覇が眺められる虎瀬公園に、詩碑を移設した。
那覇市歴史博物館より引用
濱田庄司さんは壺屋窯で陶芸を学び、第一回の人間国宝にも選ばれています。
この碑は新垣窯で新垣栄三郎さんと一緒に作った貴重な碑です。→参考記事
移設案について
なぜ今回、佐藤惣之助詩歌碑を取り上げたのかといいますと、那覇市議会でこの詩歌碑の移設が議論されています。
虎瀬公園では人目に触れる機会が少なく、碑は放置されています。なので人が多く行き交う首里城周辺への移設が議論されているというわけです。
川崎沖縄県人会は川崎市民へ移設の署名活動を行い、川崎市議会議員60人分の署名も集めています。→タウンニュースの記事
2016年11月21日、「佐藤惣之助詩歌碑の移設を考える会」が那覇市長と市議会議長に陳情書を提出し、2017年10月4日に全会一致で移設案が可決されました。
同時に、赤平町自治会(碑を守る会)より提出された「虎頭山御殿公園」への名称変更と、碑を現在の場所に残し、市指定文化財にすることを求めた陳情書は全会一致で否決されました。
移設場所は「首里城公園レストセンター芝生広場」が最初の案として持ち上がりましたが、管理している県が難色を示し 「前案の裏手、真珠道に面する場所」の代替案が県から提示され、この場所が有力視されています。
現在は赤平町自治会からの同意が得られていない為、移設は進んでいない状況です。
写真
↑これが佐藤惣之助詩歌碑
↑惣之助の詩
↑碑の裏 碑の制作について書かれています
↑確かにこの公園は人気が少なく立地もいいとは言えません
難しい問題
移設先を管轄する県は、赤平町自治会からの同意を得るよう求めています。
市は赤平町自治会に対し、同意を得るため説明をしてるそうですが難航しているようです。
これに対し、自民党の久高市議は議会で語気を強め、早期の移設を訴えています。
「全会一致の可決より、赤平町自治会意向が勝ってる」
「議会軽視だ」などなど。その様子は議会インターネット中継から確認できます。
市は県に対し、赤平町自治会からの同意を得ない形で進めていけるよう提案していくようです。
確かに、全会一致の事柄を自治会が反対するから進捗しないというのは、議会軽視と言われても仕方ありません。
しかし同時に、少数の意見にも耳を傾け配慮することも忘れてはいけないわけです。
「佐藤惣之助の詩」「人間国宝が作った碑」 とても重要な文化財です。
それに、友好のしるしを人気のない場所に放置するのは先方に悪いと思います。
川崎市では、映画製作が持ち上がっていたり、看板設置の募金も行わているようです。→久高議員の答弁より / カナコロの記事
しかし、議会で度々議論に上がる「観光資源としての活用」はどうでしょうか。
人目の触れる場所(首里城付近)へ移設し説明看板を設置したら、観光資源になるのかな?
周囲には首里城や守礼門、真珠道、園比屋武御嶽などド級な観光資源がありますが、その中に移設して有益な観光資源になるのか?(霞まない?)
観光資源とは「観光の対象、観光行動の目的となるもの」とありますが、それになり得る可能性があるのでしょうか?
確かにこの碑には素晴らしい由来があるのは誰もが認めることですが、観光客が立ち止まって見るかな?見たとしても記憶に残るものかな?観光の目的の一つになり得るものかな?
躊躇せず本音を言わせていただけば、観光資源としては相当弱いと思う。ビッグネームかと言えば正直微妙です。
那覇市議会では「国宝級だ」との発言もありましたが、それはあまりにも誇張しすぎています。冷静な判断を欠いていると思う。
どんなロジックで、どんなユースケースを見据え、観光資源としての活用を訴えているのか?….僕にはわかりません。
移設費用については具体的な数字はまだ提示されていませんが、それに見合うものなのでしょうか?費やす時間や労力に見合うものなのでしょうか?
感情的な議論になってる気がします。
もちろん教育資料としてはとても肝要な碑です。
佐藤惣之助、濱田庄司、両名の沖縄との関わり、川崎市との友好関係を学べる資料です。
詩集「琉球諸島風物詩集」には石敢當や尖閣諸島、「おもろそうし」についても書かれているそうです→「佐藤惣之助と沖縄」
川崎市は修学旅行でも役立てたいとのこと。これは那覇市民としても嬉しいことです。
那覇市としても、教育資料として活用していただきたい。
すなわち僕の思いは、
少数の意見にも配慮をしつつ「全会一致で可決」「川崎市との友好関係」は最重要視しなければなりません。移設はするべきでしょう。
しかし移設するならば、それに見合う観光資源としての道筋をしっかりと立てて進めてほしい。(観光資源としては難しいと思う……)
移設することにより、どれくらいの成果が見込めるのか?具体的な数字を算出し議論していただかないと、「国宝級だ」「観光資源だ」など言葉のインパクトだけで議論されても未来予想図が見えてこない。
移設+看板設置=観光資源 これはあまりにも短絡的すぎる。
追記2019/05/22
首里城公園内への移設を見据えた工事設計業務費を含む歴史資料編集・普及事業費に714万4千円を計上。
反対を示していた赤平自治会長が交代し、新任の自治会長と那覇市は話し合いの最中。
第2弾記事
第2弾記事を公開しました。
碑は首里城公園内に移設されました。
記事中の情報
那覇市議会インターネット中継「佐藤惣之助」関連
平成28年12月12日久高友弘議員 / 平成29年9月8日久高友弘議員 / 平成30年6月8日久高友弘議員
平成29年9月13日宮平のり子議員 / 平成30年2月22日宮平のり子議員
住所:沖縄県那覇市首里赤平町2丁目
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