鬼餅(ムーチー)文化と内金城嶽(アカギ)の危機

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ムーチーとは?

※当記事は「沖縄大百科事典」と「沖縄博物館友の会機関誌 博友」より引用して書いております。(沖縄県立図書館所蔵)

旧暦12月8日はムーチー(鬼餅)の日。新暦では2019年1月13日にあたります。
月桃(サンニン)クバの葉で包んだ餅を作り、火の神(ヒヌカン)や神棚、ご先祖様へお供えします。

家族(特に子ども)の健康や厄除けを祈願する縁起物で、その中でもクバの葉で包んだ特大の餅を「力餅(チカラムーチー)」といい神饌に供えたり、男の子だけが食べたりします。(吊るしたりもする)
※女の子は力餅ではなく、普通のムーチーを食べる。

子どものいる家庭では、子の年齢の数だけ餅を簾編みにした「サギムーチー」を作り天井から吊るします。またその中でも、5歳以下の子の分は「ジュークンジャー」といい束ねて吊るしたりします。

子どもが生まれて初めて迎えるムーチーを「初ムーチー(ハチムーチー)」と言い、その家庭では大量に餅をこしらえ親類縁者やご近所さんに配り、子どもの健康を祝福してもらう風習もあります。

ムーチー前後にやってくる急激な冷え込みを「ムーチービーサ」といい、この単語も沖縄県内各地でよく耳にします。今年はやってくるのでしょうか?

さて、今回と次回の2つの記事に分けて鬼餅(ムーチー)関連の記事を書いていきます。
今回は「ムーチー文化の危機」と「内金城嶽の大アカギの危機」について書いていきます。

元来、12月の庚子または庚午の日の何れかが「ムーチーの日」でしたが、第二尚氏第13代国王尚敬の時代(1735年)に旧暦12月8日と定められました。
漁村の一部では旧暦12月7日とする地域もあるそうで、それは海上から来る鬼が山村より1日早く上陸するからだと伝わっています。

餅のゆで汁は8日の早朝に「鬼の足焼こうね(ウナーヒサヤカヤー)」と唱えながら、門や屋敷の四隅にかけます。
ムーチーを食べ終わった殻(葉)は「ウナームチ」といい、鬼の侵入を防ぐため十字に結え門口に吊るします。それを「ウニヌマタ」といいます。

意外と知られていませんが、上記の事項が昔から伝わる正しい「ムーチーの日」の行事なのです。
しかし現代ではこれらの文化は大きく省略されており、多くの家庭では市販のムーチーを購入し、お供えして食べるだけとなっています。
「初ムーチー」などは稀に見かけますが、おじぃおばぁ世代が中心にやっており、今後は見かけることも無くなっていくでしょう。

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内金城嶽

↑大嶽

↑小嶽

議論の余地はありますが、名君であったとされる第二尚氏第3代国王の尚真が、首里城から那覇港までを結ぶ約10kmの軍道「真珠道(まだまみち)」を整備しました。→こちらも合わせ読んでみては?
沖縄戦で大部分が破壊されましたが、首里金城町に一部だけ残っています。戦後に整備がなされ「首里金城町石畳道」として現在は県指定文化財となっています。
NHKドラマ「ちゅらさん」の舞台にもなり観光名所として定着しています。

そんな石畳の途中から一本路地に入ると「内金城嶽」という御嶽があります。
御嶽内には「首里金城町の大アカギ」という樹齢300年を越える巨老木もあり、隠れた観光名所です。
ムーチーはこの内金城嶽と兄妹の鬼退治にまつわる伝説から始まったとされています。
その伝説について書くと長文になってしまうので、次回の記事で詳しく書いていきます。→「鬼餅(ムーチー)伝説はたくさんのニュアンスがある」

「沖縄大百科事典」による内金城嶽とは

「真壁大あむしられ」管下の六嶽の一つ。
御嶽東側がこの地の鎮守の大嶽、西側の小嶽は兄妹の居住跡と伝わる。
琉球王国の正史「球陽」内の舜天王(12世紀)の項目には、内金城嶽の鬼餅伝説が記載されている。
同じく「球陽」内の尚質王(1660年)の項目では「それまで大嶽には拝殿がなかったので、邑人が公儀の許しを得て拝殿を創建した」とある。
また大嶽を男とし、小嶽を女にかたどって子孫繁盛の祈願所にもされている。
戦前までは旧暦1月17日、9月9日に町内の参拝が行われていたが、戦後は個人信仰にゆだねている。

引用: 沖縄大百科事典

「大あむしられ」とは、尚真王時代に確立された聞得大君を頂点とする神女組織で、3人の上級神女「三平等の大あむしられ」が配置された。「真壁大あむしられ」はその内の1人。
大あむしられの”あむ”は「母(神女)」を意味し、”しられ”は「治める」を意味する。
首里大あむしられは、現在の南風原・国頭・伊江・伊平屋などを管轄。
真壁大あむしられは、現在の真和志・久米島・宮古・八重山などを管轄。
儀保大あむしられは、現在の浦添・今帰仁・粟国・慶良間などを管轄。

「沖縄観光資源データベース」による内金城嶽とは

古い記録に登場しているこの御嶽の紀元は12世紀までさかのぼる。「琉球国由来紀」(1713年)には茶湯崎村(ちゃなざきむら)(現松川)の項に記され、真壁大阿母志良礼が仕えていた。神名は「カネノ御イベ」または「モジヨルキヨノ大神」。9平方メートル内外の広さをやや丸く石垣で囲い、正面に直線のまぐさ石をかけた石門がある。石囲いの中にはアカギの大木がありその下に3個の石がたてられるなど沖縄独特の信仰形式を備えた御嶽。西側にはムーチー伝説の由来を伝える小嶽がある。市の有形民俗文化財。

引用: 沖縄観光資源データベース「内金城嶽」

ほぼ同じようなことが書かれています。
古くは800年以上も前から神聖な場所として尊崇の念を集めていたのです。

立入禁止

上記にもあるように、御嶽内には「首里金城町の大アカギ」もあります。
沖縄戦を免れ推定樹齢は300年以上。国の天然記念物に指定されています。
御嶽内には6本ものアカギの巨老木がありましたが、2012年9月の台風17号で内1本が倒木してしまいました。
残った5本も腐敗やシロアリ被害、根の衰弱が目立っているとのこと。
このようなことから、一部で立入禁止となっています。

僕が撮影をしていると、地域のおじいちゃんが清掃活動をしていました。
そのおじいちゃんはとても親切な方で、鬼餅伝説や戦前の様子を詳細に語ってくれました。
御年85歳で小さい頃から金城町に住んでいるらしく、現在は金城町の世話役として活動しているそうです。御嶽周辺に設置されている手作りの説明板もこのおじいちゃんの自作だとか。

御嶽には崖があり、次回の記事で詳しく書くつもりの「鬼が落ちた崖」とされています。
おじいちゃん曰く、戦前は今よりも3~5m高い崖だったらしく、沖縄戦で日本軍が石材として掘削してしまい大きく形を変えてしまったとのこと。
また、戦時中この場所で3人の死傷者が出たらしく、爆風で枝ぶりも半減したらしい。
それでも、一帯が焦土を化した中でこの御嶽だけは残り、戦後数十年で見事に枝ぶりも復活したとのことです。

立入禁止となっている区域には、ひときわ大きなメインの大アカギがあります。
さらに奥にはもう1本巨老木のアカギがありましたが、2012年9月の台風17号で倒木してしまいました。
後日、那覇市の職員がチェーンソーを使い倒木したアカギを撤去したらしいですが、その撤去作業におじいちゃんも立ち会ったらしく、すごい光景を目にしたと語ってくれました。
「昔、琉球王国が風通しをよくするために城内のアカギを数本切らしたことがあり、その時アカギから血が吹き出し、大変に驚き、噂が国中に広まった」そんな昔話があるらしく、台風で倒木したアカギからも似た感じで赤い樹液がたれていたとか。
おじいちゃん曰く、まさしく人間の血そのものだったとのことです。

お年寄りの話はためになりますね。

以前の写真と動画

↑2013年7月18日撮影 この頃は触ることもできた

↑根元には穴が空いており、像が置かれてた

↑2012年1月18日に撮影した動画 低画質です

さて、今回の記事はここまで。鬼餅伝説は次回の記事で詳しく書いていきます。
今回の記事の総括としては、ムーチー文化は大きく省略され形を変えており、内金城嶽も戦争や台風、劣化で大きく形を変えてしまっています。
次の世代に受け継げるのでしょうか?

記事中の情報

那覇市観光資源データベース「内金城嶽」→こちら
那覇市文化財課→こちら
沖縄タイムス社「沖縄大百科事典」→沖縄大百科事典
※アカギ保護のためにも、立入禁止は絶対に守りましょう。
住所:沖縄県那覇市首里金城町3丁目

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