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首里高校で発掘された「中城御殿」の現地説明会


出典:沖縄県立埋蔵文化財センター調査報告書第53集 中城御殿発掘調査報告書(Ⅰ) 首里古地図(18世紀)一部加筆

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中城御殿とは?

中城御殿とは、次代国王となる王世子(王子・世子)が住む邸宅のことをいいます。
名称については、王子が中城間切(現在の中城村・北中城村・うるま市(津堅島))を領有していたことに因んでいます。
当初、第二尚氏第8代尚豊王の時代(1621~40年)に次男尚文(佐敷王子朝益)の為に綾門大道に面する場所に御殿は創建されました。現在の首里高校西部にあたります。
「首里古地図」では、中城御殿の北側に金武御殿(尚豊王生家)、東側に大美御殿(御内原の別邸)、北東側に美里御殿(大宜見御殿尚貞王四男尚紀の屋敷)などが所在していたとされています。

1857(尚泰10)年に当蔵町へ移転し、明治に入り首里大中町(旧県立博物館)に移転することとなり、1870(明治3、尚泰23)年着工、1873(明治6、尚泰26)年11月竣工、1875(明治8、尚泰28)年3月5日に当時の世子である尚典が入居しました。
(簡単に言えば、中城御殿は皇太子(東宮御所)的な感じでしょうか)

1879(明治12、尚泰32)年の琉球処分で首里城は明け渡すこととなり、中城御殿に尚泰王以下大勢の人たちが移り住みます。後に国王の身分は侯爵となり、世子の尚典とともに東京へ移り住みます。
その後、中城御殿は「尚侯爵家首里邸」として尚家にゆかりの人たちが常住するようになり、明治末期には聞得大君御殿などからも移り住んだと云われています。(※聞得大君=王妃や王女、神女ヲナリ神
建物は1945年まで完全に保存されていましたが沖縄戦で炎上、尚家宝物は戦禍を免れましたが米軍により略奪され消失しました。(一部は発見された)

今回、首里高校で発掘された遺構は、移転前の初代中城御殿です。
移転後の旧県立博物館にあった中城御殿(尚侯爵家首里邸)は発掘調査が結構行われており、報告書や戦前の写真が多数存在します。
首里高校で発掘された当遺構についてはまだまだ調査最中で不明な点が多い遺構です。

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説明会(写真)

出典:現地説明会資料より

今回発掘調査が行われたのは、上記載の資料の水色の枠内です。
中城御殿と「かぢ木植所」(漆の木)の境界付近で、首里古地図にも描かれてる道と思われる遺構も発掘されました。平成25~26年度の調査と合わせると、中城御殿の規模がほぼ特定されました。

↑道跡(幅約5m)両サイドには溝もある。左側が中城御殿、右側がかぢ木植所

↑手前の石積みは中城御殿の外壁

↑路盤材は石灰岩を砕いたものを敷いて固めている

↑地層断面。左側の石が混じっている層は道整備時の造成工事の痕跡

↑中城御殿の北側、一番外の石積み(金武御殿との境界付近)

↑この石積みは建物の基礎と考えられるとのこと。地中に高さ2mほど埋まっているらしい。
平成25~26年度の調査では、この延長線上で同じ石積みが発掘されています。下の写真↓
↑平成25~26年度の発掘調査で見つかった石積み。現在は新校舎が建っており見ることはできません。

↑中城御殿ができる以前の発掘品、以前は何があったか不明。

↑中城御殿で使っていたと考えられる発掘品

↑中城御殿で葺かれてた瓦と考えられる(右上の高麗系瓦はもっと古い時代のもの)

↑比較的新しい時代の発掘品

動画

関連年表

中城御殿と首里高校の関連年表(現地説明会資料より引用し一部加筆)

西暦/元号  事項
1621~40年
尚豊王代
中城御殿が現首里高校の地に建設される
1677年
尚貞9/延宝5年
玉城・豊見城両家の屋敷を繰り入れて取り広げる
1798年
尚温4/寛政10年
中城御殿内に公学校(後の国学)を開く
1808年
尚灝5/文化5年
王子邸にて冊封使に「料理馳走躍」が出される
1868年
尚泰21/明治元年
尚典が世子となる
久米村の与儀親雲上ら3人を福州に派遣 風水を学ばせ中城御殿の風水看を行う
1870年
尚泰23/明治3年
中城御殿が龍潭北側(旧県立博物館)に新しく造営されることが決まる
1872年
尚泰25/明治5年
中城旧殿の宅内に薬園を開き、栽培を行う
1875年
尚泰28/明治8年
尚典が新築した屋敷に移る
1879年
明治12/尚泰32年
琉球処分
1880年
明治13年
東京師範学校から教員を招聘し、教則の認可を受け、首里中学校と改称
1887年
明治20年
沖縄県尋常中学校と改称
1899年
明治32年
沖縄県立中学校と改称
1911年
明治44年
沖縄県立第一中学校と改称
1945年
昭和20年
沖縄戦で沖縄第一中学校含む首里壊滅
1946年
昭和21年
糸満高等学校首里分校として発足
→同年首里高等学校として独立

記事中の情報

沖縄県立埋蔵文化財センター(沖縄県教育委員会)→こちら
沖縄県立首里高等学校→こちら
住所:沖縄県那覇市首里真和志町2丁目43番地

当記事は沖縄県立埋蔵文化財センター調査報告書「中城御殿」や現地説明会の資料より多数引用しております。

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この記事を書いた人
まぁびぃ

ハンドルネーム:まぁびぃ。
1995年1月30日、沖縄県那覇市出身。
2007年から2017年までは、Amebaでブログ運営をしていました。
現在は、WordPressで運営しています。
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