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末吉村跡発掘調査現地説明会

2019年11月16日9時30分から、末吉公園で「末吉村跡発掘調査現地説明会」が開催されました。
2018年に発掘された「ノロ殿内」の隣で発掘され、屋号「仲ヒザ」の屋敷跡だと考えられています。
この一帯は、末吉公園の整備事業内に当たるため、発掘調査が行われています。

配布資料

配布資料1

配布資料2

配布資料3

配布資料4

末吉に関する概略

年代出来事
1450~1456年末吉宮創建 
1600年代中頃「琉球国高究帳」→島尻方真和志間切末吉村
1713年編集「琉球国由来記」→中頭方西原間切末吉村
1700年代前半頃具志頭御殿(宜野湾御殿)の墓造営
1908(明治41)年西原村字末吉
1920(大正9)年首里区末吉町・翌年、首里市末吉町
1954(昭和29)年那覇市末吉町
1956(昭和31)年那覇市首里末吉町

出典・引用:現場説明会資料

上記の配布資料2に掲載されている『第3図「思い出のわが町」における調査地位置』の末吉民俗地図は、沖縄タイムス社による聞き取り調査で作成された地図で、ノロ殿内の隣には屋号仲ヒザ屋敷があったとされています。このことから、今回発掘された遺構は屋号仲ヒザ屋敷と特定されたようです。
また、文化財課職員によると、ノロ殿内と屋号仲ヒザ家は遠縁関係にあると、ノロ殿内の親族からの聴取で判明しているようです。

遺構正面図

入り口正面にはヒンプンがありますが、とても低いヒンプンです。
戦争の破壊された可能性も捨てきれませんが、上面が平らであることから、この上に竹で編んだ目隠しを設置していた可能性もあるそうです。(詳しくはYouTube 11:43~
来客はヒンプン右側を通り、母屋の一番座(応接間)へ。家の者はヒンプン左側を通り、台所から母屋に入っていたそうです。
母屋の大きさは、約5.4m×6.7mほどの大きさで、右側に一番座、左側に二番座、奥に裏座(寝室など)があったと考えられます。
台所と母屋が同じ建物だったのか、別棟だったのかは不明らしく、台所の大きさは約3.4m×4.4mほどの大きさとのこと。

↑横からみたヒンプン

フール

台所の西側には三連式のフール(豚小屋兼便所)があります。石材は琉球石灰岩です。
フールは手前に傾斜し、さらに3連式の奥側(写真左上側)にも傾斜しています。汚物は肥溜め(シーリ)に溜まるような傾斜設計がなされています。
ノロ殿内でも三連式のフールが発見されており、末吉は敷地が広かったため、三連式が多いそうです。(詳しくはYouTube 15:13~

↑フール正面

↑雨水を溜める水瓶(詳しくはYouTube 16:24~

出土品

出土品の6割が沖縄産陶器で、残り4割は本土産陶磁器、僅かに中国産の器も出土したとのこと。
瓦の出土は認められず、屋号仲ヒザ屋敷は瓦葺ではなく、茅葺だった可能性が高いそうです。

さらに、土層の下層からは、中国産の青磁や土器なども出土しており、屋号仲ヒザ屋敷が建つ前のさらに昔から人間による何かしらの活動があったと推考できるそうです。

↑出土品1

↑出土品2

↑出土品3

↑出土品4

↑戦前、米軍が撮影した末吉
(出典:現地説明会パネル)

今回発掘された屋号仲ヒザ周辺の屋敷は敷地が広く、末吉の発祥の家(旧家)の部類だと考えられるとのこと。
ノロ殿内や多くの屋敷、石畳、村屋、遍照寺末吉宮、井泉、御嶽など素晴らしい街並みがあったと思われますが、すべて戦争で失われてしまいました。

今回の現地説明会には多くのお年寄りの姿が見受けられました。
僕の近くにいた高齢の女性は「懐かしい。思い出すさぁ。私は村屋が幼稚園みたいなもんだったよ。」などと話しており、漏れ聞こえてきました。

戦争がなければ、どのような街並みが末吉の森に広がっていたのでしょう…..

現地説明会の動画

現地説明会の全編動画です。

記事中の情報

当記事は、末吉村跡発掘調査現地説明会で配布・展示されていた資料や写真を多く引用しております。
キーワード:ノンドンチ,ヌルドゥンチ,ノロドゥンチ,宜野湾御殿の墓,琉球,令和元年

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