2019年10月31日2時40分頃に発生した首里城火災で、正殿、北殿、南殿、書院・鎖之間、奥書院、黄金御殿(クガニウドゥン)、二階御殿(ニーケーウドゥン)、奉神門の一部が焼失しました。
焼失面積は約4800平方メートルに及び、保管展示されていた美術工芸品や文化遺産も焼失したと思われます。
火災の発生から一日が経ちましたが、いまだに信じられません。
喪失感…..。とても強い喪失感です。
数十年もの時間を要するとは思いますが、必ず再建させてほしいです。
さて、当記事では過去に撮影した首里城の写真を改めて紹介したいと思います。
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首里城の歴史
13~14世紀頃に創建。築城主などは不明。
1406年(三山時代)、佐敷按司の尚巴志が中山王武寧を倒し、父尚思紹王が中山王に即位。
以降、琉球国支配の中心地として、第一尚氏~第二尚氏最後の王尚泰まで約450年間居城として使われる。(第一尚氏7代64年、第二尚氏19代411年)
察度王統時代に大修築が行われとされ、1427年に尚巴志が龍潭を作り庭園を整備。
第一尚氏5代尚金福王が崩御後、世子の志魯(しろ)と金福の弟布里(ふり)が王位を巡り争う(志魯・布里の乱)。その際に首里城は全焼。
志魯、布里は共に争いで薨れ、尚巴志の末子尚泰久が6代王に即位。泰久は城内の建造物を再建し、仏教に帰依し城下に寺や末吉宮を創建。また正殿に銅鐘(万国津梁の鐘)を懸ける。
王朝は第二尚氏へ移り、3代尚真王が菩薩寺である円覚寺、王統の陵墓である玉陵、円鑑池(弁財天堂)、大龍柱、北殿、歓会門、久慶門、園比屋武御嶽石門などを創建。
4代尚清王は龍樋や守礼門を建設。
1609年薩摩侵入後は、薩摩の役人を接見するところとして南殿を建設するが、1660年9月27日正殿とその他が全焼。その頃の王府財政は困窮していたこともあり、再建は12年後の1672年に行われる。
1709年に再び、正殿・南殿・北殿が焼失するが、島津の寄賜で再建。
1753年に寝廟殿、世添御殿が創建、1768年には正殿の大修理。
1872~1879年、琉球処分が行われ、首里城開城。
1923年、取り壊し寸前だった正殿を伊東忠太、鎌倉芳太郎らの尽力により保存され大修築が行われる。
1925年に国宝に指定。
1933年には歓会門、瑞泉門、白銀門、守礼門、円覚寺も国宝に指定。
1945年、沖縄戦で日本軍第32軍司令部が首里城の地下につくられ、それに伴い米軍の砲爆撃に遭い消失。
戦後、首里城を含む周辺の文化財の復元が行われ、1992年に首里城公園の一部が開園。
2000年に「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として首里城跡、園比屋武御嶽石門、玉陵などが世界文化遺産に登録。
2018年10月19日、玉陵が国宝に指定。
2019年2月1日、御内原の復元が完了し開園。→首里城公園ほぼすべての復元が完了。
2019年10月31日、正殿、北殿、南殿、書院・鎖之間、奥書院、黄金御殿、二階御殿、奉神門が焼失。
記事中の情報
2019/10/31更新:首里城の火災
2019/04/04更新:2014年に撮影した首里城
2019/03/03更新:首里城御内原が復元された
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