家系図からみる沖縄戦

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直系尊属を調べる

●注意点
僕の両親は平成12年(2000年)に離婚しています。当時僕は5歳でした。
それ以降、母やその親族とはあまり交流がありません。
なので今回の記事では、直系尊属の男系親を遡って書きます。
要するに、父の父の父の父の父….を遡るということです。
当記事では母方の親族は一切出てこないので、こんがらがらないよう注意してください。

●聞き取り調査
最初にしたことは祖父母から話を聞くことです。
残念ながら祖父は2012年2月19日に亡くなってしまいました。
しかし生前に、昔話をたまにしてくれましたので多少はその話を覚えています。
祖母も、祖父(祖母の夫)や曽祖母(祖母の姑)から伝え聞いている話があるので、それを改めて聞きました。

●戸籍調査
続いては戸籍を遡ることにしました。
最初は那覇市役所へ行き、父の戸籍謄本を取得しました。(300円)
想像通り出生欄や本籍は祖父母と実家でした。

続いては祖父の本籍地へ行きました。2006年の合併後は南城市となっています。
南城市役所へ行き祖父の改製原戸籍を取得しました。(750円)

「昭和四拾六年弐月四日(旧姓祖母名)と婚姻届出 同月八日那覇市長から送付(本籍)ツル戸籍から入籍」と書かれています。
ツルとは僕の曽祖母の名前です。さらに遡り曽祖母(ツル)筆頭の改製原戸籍(除籍謄本)を取得します。(750円)

「(略)昭和四拾参年拾月拾九日同所同番地(祖父名)戸籍から本戸籍編製」と書かれています。
ここで予想だにしなかった事態です。戦死した曽祖父に代わり、曽祖母が筆頭者で編製されたものだと思っていました。
しかし「(祖父名)戸籍から編製」とあるので、1つ古い祖父筆頭の改製原戸籍(除籍謄本)が存在するということです。
複雑になってきたのでここまでの流れを降順に要約しますと、
父筆頭の戸籍謄本→祖父筆頭の戸籍(祖母と婚姻につき編製)→曽祖母筆頭の戸籍(祖父も記載)→祖父筆頭の戸籍(曽祖母も記載)→沖縄戦
なので、曽祖母も記載されている祖父筆頭の改製原戸籍(除籍謄本)を取得します。(750円)

「昭和弐拾年五月参拾日 前戸主眞次死亡により家督相続届出 昭和参拾壱年拾弐月参拾壱日受附」と書かれています。
眞次とは、曽祖父の名前です。さらに遡り曽祖父(眞次)筆頭の改製原戸籍(除籍謄本)を取得します。(750円)

「(本籍)で出生 父眞文届出 明治四拾年四月拾日受附入籍」と書かれています。
眞文とは高祖父の名前です。さらに遡り高祖父(眞文)筆頭の改製原戸籍(除籍謄本)を取得します。(750円)

「明治四拾弐年六月九日 前戸主眞七死亡により家督相続届出 同月拾日受附」と書かれています。
眞七とは高祖父の父、すなわち僕の直系尊属(男系親)の5代前ということです。
これより先は戸籍は存在せず遡ることはできませんでした。

すべての戸籍編製の流れを降順に要約しますと、
父筆頭の戸籍謄本→祖父筆頭の戸籍(祖母と婚姻につき編製)→曽祖母筆頭の戸籍(祖父も記載)→祖父筆頭の戸籍(曽祖母も記載)→沖縄戦→曽祖父筆頭の戸籍→高祖父筆頭の戸籍→以降存在せず
長時間調べてくれた南城市役所職員の方に感謝です。
眞七さんより上の世代は現在調査中です。その結果は後日、記事を更新します。→先祖の謎と継承の危機(限定公開記事)

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五代前の眞七さんを推考

眞七の出生日は不明ですが、きっと1800年代前期~中期頃と推考できます。
1850年代の沖縄はまだ琉球王国でした。第二尚氏第19代尚泰王が即位していた時期です。
1853年には黒船ペリー提督が浦賀へ来航する前に琉球へ寄港しています。
1872年には琉球処分
琉球王国から日本へ移り変わる激動の時代を生きていたと思われます。
眞七は、1860~70年代にカミという女性と出会い結婚したと思われます。
琉球処分の2年後、明治7年(1874年)8月15日に眞七とカミの間に長男が生まれました。
のちの僕の高祖父、眞文の誕生です。
明治42年(1909年)6月9日、眞七は死去します。享年不明。
カミは眞七よりも前に亡くなっています。

高祖父の眞文さんを推考

明治32年(1899年)9月23日、25歳の眞文は26歳のカメという女性と結婚します。のちの僕の高祖母です。
カメは明治6年(1873年)5月20日、加目とツルの長女として生まれました。旧姓は小谷といい、入籍以前の住所を見てもお互いの家はとても近かったことがわかります。眞文とカメはご近所さんで幼馴染だったかと推考できます。
明治34年(1901年)6月20日、眞文とカメの間に長男が生まれます。
明治40年(1907年)4月7日には、次男が生まれます。のちの僕の曽祖父、眞次の誕生です。
昭和18年(1943年)9月26日もしくは昭和20年(1945年)5月10日、妻カメが死去します。享年70~72歳。
昭和20年(1945年)12月15日?(解読不確定)に眞文は死去します。享年70~71歳。

曽祖父の眞次さんについて

昭和5年(1930年)10月10日、23歳の眞次は21歳のツルという女性と結婚します。のちの僕の曽祖母です。
ツルは明治42年(1909年)6月20日、孟良とマカトの長女として生まれました。旧姓は屋比久といい、入籍以前の住所を見てもお互い家は近かったとわかります。
昭和7年(1932年)1月10日、眞次とツルの間に長女が生まれます。
昭和10年(1935年)1月15日には、長男が生まれます。名前は伏せますが、のちの僕の祖父です。
昭和13年(1938年)3月20日には次女、昭和19年(1944年)11月1日には三女も生まれます。
しかし時代は戦争へ向かっていました。眞次も従軍します。

沖縄戦と眞次


眞次は、防衛隊として従軍したと祖母が伝え聞いていました。
防衛隊をWikipediaから引用しますと、

太平洋戦争時の沖縄では、在郷軍人会防衛隊の組織と22000-25000人の防衛召集が実施され、防衛隊と呼ばれた。(中略)
防衛召集兵22000-25000人のうち、約13000人が戦死した。(中略)
沖縄戦での防衛隊はアメリカ軍上陸まで軍事訓練などはほとんどなく、武器も非常に不足していた。防衛召集により部隊配属後、基本的には軍服が支給されたが、ワラジ履きの者もいた。雨具の不足で蓑と笠を身につけて作業することもあり、自嘲して「ミノカサ部隊」と称した。銃器等の支給も限られており、支給された竹槍を研く姿を「ボーヒータイ(棒兵隊)」と自嘲した。
引用元 – Wikipedia「防衛隊」

「眞次は棒で戦った」と伝え聞いていますが、上記のWikipediaの記述をみるとあながち間違いな証言ではないと思います。しかし実態は不明です。
眞次は戦火に散り、遺骨は見つかっていません。
改製原戸籍を見ると、厚労省未帰還調査部の報告で「昭和弐拾年五月参拾日時刻不明沖縄本島真和志村字安里で戦死」という調査結果が記載されています。
「田崎病院の裏で戦死した」と祖母も伝え聞いています。
安里と田崎病院は距離的にそこまで離れていないので、眞次は松川~安里~真嘉比周辺で戦死したと思われます。

地図引用 – Google

この地域は「シュガーローフの戦い」「ハーフムーンの戦い」など激戦地として有名です。
シュガーローフの安里側には「ホースシュー」と呼ばれる窪地があり、日本軍はここに迫撃砲陣地を構築したともあります。→シュガーローフの戦闘
実際に眞次がそれらの戦いに動員されていたのかは不明ですが、司令部の防衛最前線にいたことは事実です。
那覇市HPの「沖縄戦概説」を参考に経緯を推考しますと、

1945年5月12日~18日シュガーローフの戦闘
1945年5月22日司令部、南部撤退を決定
1945年5月25日南風原陸軍病院に南部撤退命令 糸数分院も解散
1945年5月27日司令部、南部の摩文仁に撤退
1945年5月30日眞次戦死
1945年5月31日米軍、首里城地下の沖縄守備軍司令部を占領

司令部が南部撤退し、米軍が首里司令部を占領した前日に戦火に散ったと思われます。享年38歳。若すぎる死です。

沖縄戦とツル、そして子供達

36歳のツルは、13歳の長女、7歳の次女、生後数ヶ月の三女を連れ本島北部へ逃げたと思われます。(祖母もツルから北部に逃げたと伝え聞いています。しかしなぜ南城市から北部へ?)
10歳の長男(僕の祖父)は、宮崎県へ学童疎開します。
昭和20年(1945年)10月30日午後5時10分頃、国頭郡久志村汀間で長女死去。享年13歳。
昭和20年(1945年)10月31日午前8時頃、国頭郡久志村汀間で三女死去。享年9ヶ月。
(位牌には長女享年10歳、三女享年2歳と書かれているが間違いだと思われる)
マラリアで亡くなったと伝え聞いています。
Wikipediaの「戦争マラリア」にも「国頭(沖縄本島北部)一帯で1万名あまりがマラリアで死亡したとしている」と記述されています。このことから、ほぼ正確な証言でしょう。
宮崎県へ疎開していた長男(僕の祖父)は、終戦後に帰郷します。

※ここまでは、名前や続柄で記入してきました。
 これ以降は、眞次は「曽祖父」、ツルは「曽祖母」、長男(僕の祖父)は「祖父」と表します。

戦後から現在

昭和45年(1970年)3月26日璽、曽祖父は日本国から勲八等白色桐葉章を授与されました。(戦死者の多くに授与された)
曽祖母はこの勲章をとても大切にしていたらしく、今も仏壇の隅に大事に置かれています。
戦後、曽祖母は一人で靖国神社を参拝しています。その時お土産で買ってきた皇居二重橋の刺繍画は今もリビングに飾られています。

昭和39年(1964年)9月に祖父と祖母は事実上の婚姻関係となります。(昭和46年2月4日に婚姻届出)
昭和47年(1972年)本土復帰の年に祖父と祖母の間に父が生まれ、平成7年(1995年)に父と母の間に僕が誕生しました。
平成9年(1997年)2月26日に曽祖母は死去します。享年88歳。
僕は当時2歳なのですが、曽祖母の記憶は断片的に残っています。病院にお見舞いに行った記憶です。でも改めて考えてみると、2歳の頃の記憶が残ってるということがあり得るのでしょうか?
あとから写真で見たり、聞いたりしたことが「見た記憶」として間違ってインプットされているのでしょうか?
どちらにせよ、記憶の中に曽祖母がいるのは嬉しいことです。

祖父は13~15年前に疎開先の宮崎で行われた同窓会に参加しました。
当時僕は小学校低学年。同窓会へ旅立つ前日、祖父にインスタントカメラの使い方をレクチャーした記憶があります。とても楽しみにしていました。
同窓会から帰宅した1年数ヶ月後、祖父は脳梗塞を患い半身不随となってしまいます。
長らく家族で介護していましたが、2012年2月に肺炎で死去。享年78歳でした。
生前に何度か疎開の時の話をしれくれました。
覚えている話は「疎開先で食べたカボチャの味噌汁が美味しかった」という話です。

祖父はカボチャのみそ汁をよく作っていました。その時にこのような話をしていた記憶があります。
他には対馬丸の前後の船に乗船した話なども聞いた記憶があります。しかし僕もまだ幼かったのであまり詳しくは覚えていません。
今、詳しく昔の話を聞こうと思ってももう遅い。断片的な資料と記憶を紡ぎ推考するしかないのです。

もしかすると?

まずこの動画を見てください。

これは戦前の1949年、現南城市で撮られた動画です。(南城市公式動画)
概要欄には「旧佐敷町字仲伊保出身、故 屋比久孟吉氏が撮影された」とあります。
上記の「曽祖父の眞次さんについて」でも書いたのですが、曽祖母ツルの旧姓は「屋比久」、父の名を「孟良」と言います。
出身地の近さや名前の類似点から、曽祖母となにかしらの関係性があると思われます。(祖母に聞いても知らないとのことでした)
屋比久孟吉さんの情報がグダグダ(β)に書かれていました。→グダグダ(β)「屋比久孟吉」
「1900(明治13年)に佐敷村生」と記載されています。
しかし、明治13年は西暦1880年です。元号と西暦どちらの情報が正解なのでしょうか?
「琉文21 » アメリカ合衆国ハワイ州②」にも屋比久孟吉さんの名が記載されていますが、生年月日は書かれていませんでした。
明治13年生まれにせよ、1900年生まれにせよ、曽祖母よりも前に生を受けています。

きっと戦前の曾祖父母は、この動画に映っている近くで生活していたと思われます。
祖父もこの近所で生まれ、幼少期を過ごしたのでしょう。

 ※「1949年」旧佐敷村・旧知念村・旧玉城村の在りし日の姿・・・よりキャプチャ

家系図からみる沖縄戦

沖縄戦は我が家系にも大きな影響を及ぼしました。
曾祖父は妻や小さな4人の子どもを残し38歳の若さで戦死しました。遺骨も見つかっていません。
戦死したとされる那覇市安里一帯は国際通り那覇新都心地区が近くにあり、再開発が進んでいます。アスファルトの下で遺骨が放置されていると思えば、とても不憫で無念です。
曾祖母は国頭の地で13歳と9ヶ月の愛娘2人をたて続けに亡くしました。戦死した夫の消息も不明で多くの悲しみを経験しました。
祖父は一人家族と離れて宮崎へ疎開し、父や姉、妹を戦争で亡くしました。戦後は独学で英語を習得し駐留米軍相手にタクシーの運転手をしていたそうです。

※ 1955年12月17日撮影。祖父20歳の頃。

来る6月23日は沖縄戦の組織的戦闘が終わった日である「慰霊の日」です。
月並な言葉ですが「今ある平和は、多くの犠牲の上にある」
僕は今年23歳の戦後2世です。記憶の風化などが騒がれますが、過去の歴史を教訓に平和を維持する努力を怠ってはなりません。

記事中の情報

今回取得した戸籍にかかった料金
筆頭者父の戸籍謄本=300円
筆頭者祖父の改製原戸籍(婚姻後)=750円
筆頭者曽祖母の改製原戸籍=750円
筆頭者祖父の改製原戸籍(戦後直後)=750円
筆頭者曽祖父の改製原戸籍=750円
筆頭者高祖父の改製原戸籍=750円
合計=4050円

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