慰霊の日-戦後74年を迎えた沖縄

令和最初の慰霊の日は大雨となりました。
県内各地では先の大戦を顧み、戦場に斃れた御霊や戦禍に巻き込まれて亡くなった全ての御霊に対し追悼が行われました。

糸満市摩文仁にある平和祈念公園では県主催の「沖縄全戦没者追悼式」が執り行われ、安倍総理大臣はじめとする閣僚、衆参両院議長、沖縄県正副知事、政治家、各市町村長、在日米軍関係者などなど、多くの来賓が参列。

印象的だったのが、玉城デニー知事に対して送られたたくさんの拍手と、安倍総理大臣に対して送られた「帰れ」「嘘つき」などと言った野次の数々。
もちろん、中には安倍総理の挨拶に対して好意を持って拍手を送る人もいましたが、野次に比べては少なかった印象です。(衆参議長の挨拶には野次はなかった)

玉城知事の平和宣言では、ウチナーグチと英語を織り交ぜスピーチを行い、基地の過剰負担や辺野古移設批判などを語りました。
それに対し、安倍総理大臣の挨拶は、沖縄振興や西普天間住宅地の跡地利用など、基地の負担軽減に全力で取り組むという内容でした。

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写真集

↑安倍晋三内閣総理大臣

↑玉城デニー沖縄県知事

↑大島理森衆議院議長

↑伊達忠一参議院議長

↑岩屋毅防衛大臣

↑根本匠厚生労働大臣

↑新里米吉沖縄県議会議長

↑平和の詩朗読、兼城小6年山内さん

↑「沖縄全戦没者之霊」碑

↑合掌するお坊さん

↑平和の火

↑沖縄平和祈念像

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慰霊の日とは

牛島満司令官長勇(ちょう いさむ)参謀長が自決したのが1945年6月23日頃とされており「組織的戦闘が終結した」ことに因んで定められた記念日です。
1961年、米軍統治下にあった琉球政府は、当初6月22日を慰霊の日として定めましたが、1965年に現在の6月23日に改正。本土復帰後は「沖縄県慰霊の日を定める条例」に受け継がれています。

沖縄県慰霊の日を定める条例

沖縄県慰霊の日を定める条例をここに公布する。

第1条 我が県が、第二次世界大戦において多くの尊い生命、財産及び文化的遺産を失つた冷厳な歴史的事実にかんがみ、これを厳粛に受けとめ、戦争による惨禍が再び起こることのないよう、人類普遍の願いである恒久の平和を希求するとともに戦没者の霊を慰めるため、慰霊の日を定める。
第2条 慰霊の日は、6月23日とする。
附 則
 この条例は、公布の日から施行する。

昭和49年10月21日条例第42号

また、1991年には「沖縄県の休日を定める条例」第1条(4)により休日となっています。
(琉球政府時代は「住民の祝祭日に関する立法」により休日だった)

「組織的戦闘の終結」と言っても、本島の一部や宮古・八重山などでは、6月23日以降も戦闘は続いており、全県における武力解除は9月上旬のことでした。
これにより、6月23日を慰霊の日と定めることに対して異論を唱える声もあるようです。

曽祖父

僕の曽祖父は防衛隊として従軍し、1945年5月30日に那覇市安里で37歳という若さで戦死しました。
那覇市安里はシュガーローフの戦いハーフムーンの戦いなどで有名な激戦地であり、米軍が首里司令部を占領する前日の1945年5月30日頃、戦場に斃れたとされています。(厚労省未帰還調査部の報告により)

しかし、曽祖父の遺骨は見つかっていません。
現在の安里周辺は住宅や商業施設が密集する那覇の中心部となっており、その地中に遺骨が放置されているか、もしくは、遺骨収集がなされ合葬されている可能性もありますが、どちらにせよ、家族の手で葬ることができずにいます。無念でなりません。

祖父は1人で宮崎へ疎開し、曾祖母と大伯母ら4人は戦禍を逃れるため国頭へ逃げました。しかし、当時13歳と生後9ヶ月だった大伯母2人はマラリアで亡くなりました。

  • 子どもを残し37歳で戦死した曽祖父。遺骨すら見つかっていない。
  • マラリアにより、13歳と生後9ヶ月で亡くなった大伯母2人。
  • 夫と娘らを亡くした曾祖母。
  • 父と兄弟を亡くした祖父。

僕の家系にも多大な影響を与えた沖縄戦。
後世に生きる我々は、今ある平和を維持する努力を絶対に怠ってはいけないのです。
詳しくは2018年4月7日に更新した「家系図から見る沖縄戦」を御覧ください。

戦後

戦後74年が過ぎましたが、沖縄には先の大戦から現在まで続く課題が多々あります。
基地問題では、本土と沖縄、政府と県政との間で大きな溝ができています。また、県民間でも対立が生まれています。

仲井真元知事の公有水面埋め立て許可(移設容認)、翁長前知事の「埋め立て取り消し」とその後の政府との訴訟合戦、辺野古違法確認訴訟の県の敗訴、県民投票や知事選などにおける民意、今後あると思われる「埋め立て撤回」に関する訴訟合戦。
離島防衛や外交、沖縄振興にまで話を広げると、幾重にも要素が絡み合い、一言では言い表せない複雑さがあります。選挙の度、県民は頭を抱えていることでしょう。

しかし、保革の壁など関係なく、事故や不祥事の多さには怒りを禁じえません。
2017年12月には普天間第二小学校と緑ヶ丘保育園に米軍機の部品が落下する事故があり、2019年6月4日にも浦添市立浦西中学校に布状の部品が落下しました。
沖縄国際大学の米軍ヘリ墜落事故宮森小学校の米軍機墜落事故、2016年の名護市浅瀬でのオスプレイ不時着(もしくは墜落)などなど、墜落、不時着、胴体着陸、原野火災、部品落下は数えきれないほど起きています。
それなのに、事故や不祥事が起こる度、ネットでは心無い書き込みが溢れます。子どもたちが危険に晒されたのに、「自作自演」「プロ市民〇〇」「パヨク〇〇」などと心無い書き込みをするロジックがわからない。

基地関係事件・事故数の推移

復帰後の米軍航空機関連事故出典:沖縄の米軍及び自衛隊基地(統計資料集)平成30年3月

また不発弾の問題では、未だに約2000トンもの不発弾が地中に残されているとされ、全てを処理するのには70年以上もかかると試算されています。
2019年5月30日には、宜野湾市立大謝名小学校の児童が、不発弾を投げたりして遊んだ挙げ句、自宅に持ち帰っていたということがありました。
過去には不発弾の爆発事故なども起きているので、大変危険な行為だと思います。そして同時に、未だに残る戦争の傷跡、不発弾に関する教育の不備や戦争の風化なども感じる出来事です。

まとめ

上皇さまは85歳の誕生日に際し、以下のように語られました。(当時は天皇在位中)

(前略)沖縄は,先の大戦を含め実に長い苦難の歴史をたどってきました。皇太子時代を含め,私は皇后と共に11回訪問を重ね,その歴史や文化を理解するよう努めてきました。沖縄の人々が耐え続けた犠牲に心を寄せていくとの私どもの思いは,これからも変わることはありません。
そうした中で平成の時代に入り,戦後50年,60年,70年の節目の年を迎えました。先の大戦で多くの人命が失われ,また,我が国の戦後の平和と繁栄が,このような多くの犠牲と国民のたゆみない努力によって築かれたものであることを忘れず,戦後生まれの人々にもこのことを正しく伝えていくことが大切であると思ってきました。平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに,心から安堵しています。(以下略)

先日、国会議員による北方四島への戦争発言が物議を醸しました。平和を追求すべき国会議員があのような発言をするとは由々しきことです。

月並みの言葉ですが、今の日本は多くの犠牲の上にあることを決して忘れてはいけません。

記事中の情報

慰霊の日→Wikipedia
県営平和祈念公園→こちら
沖縄平和記念資料館→こちら
住所:沖縄県糸満市摩文仁444

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